連合東京

地域だからできる活動
すべての働く人の味方と
言われる組織へ

連合東京 中南ブロック地協 元議長
望月 浩さん

連合君

望月さんは連合の大田地区協議会(以下、大田地区協)の活動から参画し、一昨年まで中央南部ブロック地域協議会(以下、中南ブロック地協)の議長を務められるなど、長い間、連合東京の地域運動を最前線で推進されてきました。ご自身が組合にかかわったきっかけを教えていただけますか。

望月浩さん

望月さん:1984年に新規採用で入った東京都交通局は、労働組合が経営しているのかと思うほど、職場の中に労働組合がしっかり根づいていました。当時は国鉄、電電公社、専売公社の3公社民営化が議論される中で様々な共闘関係がありました。その頃の自分自身は何かやろうとの明確な思いは特になく、何となく青年部に入ったのを覚えています。1989年に連合、連合東京が結成され、その翌年に地域協議会(以下、地協)が各地で誕生し、南部地協は1990年3月に立ち上がりました。当時、私が所属する東京交通労組馬込検修場支部の支部長が、初代事務局長を務めた関係で、南部地協事務所は組合支部室の奥にある4畳半の応接間に電話一本引いてそこに設置されました。2002年、南部地協と中部地協が合併して中南地協として再始動し、2003年に大田地区協の事務局長に就任しました。

連合君

事務局長になる以前、大田地区協はどのような雰囲気でしたか。
連合結成から地協誕生まで、印象に残っている出来事はありますか?

望月浩さん

望月さん:連合結成以前から大田地域や南部の労働者は地域運動が盛んでした。連合結成当時はまだ20代で、執行委員になっていたか、青年部長をやっていた時ぐらいの頃です。当時の先輩方は地協立ち上げの最も大変な時期で、総評・同盟・中立・新産別の4団体で役員のバランスをどうするかの調整や各団体の運動スタイルの違いに苦労したと聞いています。食堂と組合事務所が近く、泊まり勤務で食堂に行くと、支部長(南部地協事務局長)が連合役員を職場に連れて来て夜な夜な話合いを続けていた記憶があります。顔合わせ、腹合わせに苦労していて、議論中に白熱して殴り合い寸前の喧嘩になったという話も聞きましたね。それだけ連合に対して真剣だったと思います。

連合君

それは激しいやりとりですね。

望月浩さん

望月さん:連合というナショナルセンターに入るか、入らないかを議論し、「互いに相容れないんじゃないか」との抵抗もありましたね。出身団体によって運動手法が異なり、デモ行進がなぜ必要かなど、運動方針をすり合わせるため、よく話し合っていたと聞いています。賛否両論でぶつかり合うこともありましたが、今までの運動手法が異なるので当然です。先輩には「最後は人。人が困っていたらみんなで助けろ。日頃から助けもしないで、自分が苦しいときに誰が助けてくれるか?」とよく言われ、地域で働く仲間同士が一緒に活動することの重要性を感じました。

連合君

望月さんは地域運動にどのような思いを込めて取り組まれ、
どんなことを大切にしてこられたのでしょうか。

望月浩さん

望月さん:何か勉強して組合活動に飛び込んだ訳ではないので、僕が大田地区協の事務局長になった当時はベテランの先輩ばかりを相手にしなければならなくて、とてもビビったことを覚えています(笑)。余裕を持てるようになると、どうしたら会議などに人が集まってくれるかを悩みました。1回会議を欠席すると、どうしても来づらくなってしまうため、「連合大田通信」を発行し、大田地区協の構成組織役員全員と中南の三役に配り、会議を欠席しても、どんな活動をしているか、わかるように工夫しました。

連合君

情報発信に注力されたのですね。雰囲気が伝わる内容で、良いですね。

望月浩さん

望月さん:編集センスのある職場の若手に教わりながら、スポーツ新聞のデザインを参考にし、本音や遊び心を反映させていました。参加者の半分以上は専従ではなく、仕事と組合活動の掛け持ちで、自分の時間を削って来てくれています。「自分が参画している」との意識を持ってもらいたくて、会議の参加者が自身の職場の悩みを全員、必ず発言する機会をつくりました。地域の良さは互いに近い立場で情報を共有できることですね。

連合君

連合の客観的評価を行うため、2003年に連合評価委員会の答申が出されました。望月さんはどのように受け止められたのでしょうか。

望月浩さん

望月さん:連合に関する情報が組織の末端に届くまでにはタイムラグがあり、正直に言えば、当時はよく理解していませんでした。地区協事務局長の立場では、連合の伝えたかったことは十分に浸透してはいなかったと感じます。ただ大田地区協は「顔の見える運動=地域貢献」と捉え、障がい者施設が毎年行うお祭りでプラ板づくりをやったところ大人気になりました。あれから十数年、プラ板づくりの出展は今も続いています。街宣のティッシュ配りも毎月、蒲田駅で続けました。
2013年に議長に就任して以降は、評価委員会答申内容をより意識して活動してきました。連合は大企業の男性正社員の立場を代弁する部分が大きい。労働組合全体が、社会的不条理に対する働きかけが弱くなってしまい、運動の迫力に欠けてしまう。評価委員会の指摘通りです。未組織労働者、非正規労働者も含めて共感を呼ぶ運動が必要です。理想かもしれませんが、そこをどう実現するかが一つの指針だと思います。

連合君

共感を呼ぶにはどういった方向性が大切でしょうか。

望月浩さん

望月さん:連合は誰のために何のためにあるのか。ナショナルセンターの役割をもっと考えるべきです。30年前に当時の人たちがどんな思いで連合をつくり、今なら、非正規労働の人にどんなアピールをするのか。今、連合が大動員をかけてどれほど人が集まるでしょうか。大衆運動はかつての勢いを失っています。10万人、20万人を集めて、「働く人の味方は連合だ」と胸を張って言える組織になり、未組織労働者の人にも「連合を応援しています」と言われる構図をつくるべきです。理屈じゃなく、行動することが大切です。
2015年に中南ブロック地協の議長に就任した後、三役・幹事のみなさんと議論し、十数年行っていなかった春季生活闘争デモ行進を再開し、毎年行いました。

連合君

地域ならではの活動としては、どんな取り組みが効果的でしょうか?

望月浩さん

望月さん:僕が大田地区協で事務局長を務めていた当時は、大田区への政策・制度要求において地域特性のある課題解決に努めました。たとえば外国籍の子どもが小学校に多くいたため、保護者会や面談で通訳のボランティアをつけることが必要となりました。通訳ボランティアの人材や時間の確保を課題として取り組み、解決したことがあります。また、羽田の跡地や環境をどうしていくか、公園の外灯増加や落書き防止なども課題として取り組みました。この経験からタウンミーティングを行う際にも、それが選挙対策なのか、政策対話の機会なのか、本当にやりたいことを真の目的として明確に打ち出したほうが、参加者にとってもわかりやすいはずです。

連合君

最後に、次の世代へのメッセージをお願いします。

望月浩さん

望月さん:連合の活動が現場にどこまで浸透しているか、見直す時期にきているかもしれません。一般の組合員は、身近な単組には関心が持てても、連合を見聞きするのは政治ニュースぐらいになってしまっているような気がします。運動を単に“今の労働者のため”じゃなくて、“将来の労働を見据えた”かつタイムリーな課題へ機敏に対応するものにし、「打てば響く」組織になることです。役職者に限らず、どんな立場でも、社会を変えていく気概を持って取り組めば、共感を得られるのではないでしょうか。そのためには、地区協で出た声は必ずブロック地協に、そして連合東京にもあげる。周囲をあまり気にせずに、気づいたことはどんどん声を挙げ、着実に、地道に活動を続けていけば、いつか花開くのではと考えています。

インタビューを伺ったメンバーと共に

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