連合東京

労働組合で大切なのは
経験、勉強、
コミュニケーション

元連合総合労働局長
長谷川 裕子さん

連合君

長谷川さんは八王子の郵便局にお勤めだったそうですね。

長谷川裕子さん

長谷川さん:郵便局に就職したのは1974年10月。私は24歳で、既に結婚していました。夫とドライブ中に職員募集の垂れ幕を見て、郵便局なら一生仕事を続けられるだろうと思って応募したのがきっかけです。最初は八王子中野上町一郵便局に巡回要員(年次有給休暇を取得した職員の代替として、複数の局を巡回して勤務する職員)として勤務し、翌年に高倉郵便局に配属されました。

連合君

どのような経緯で組合活動に関わるようになったのですか。

長谷川裕子さん

長谷川さん:高倉郵便局は、職員2人と局長1人しかいない特定郵便局。家族的と言えば聞こえはいいですが、それを通り越して封建的なところがありました。残業しても時間外手当を全額もらえなかったり、窓口で定額貯金の募集を行っている私たちよりも、後ろに引っ込んでいる局長さんのほうがなぜか手当を多くもらっていたり。私はおかしいと思ったことは黙っていられないたちで、文句ばかり言っていました。仕事を教えてくださっていた先輩のすすめで、同僚の女性職員と一緒に全逓(全逓信労働組合)に入ることにしました。
それからは職場で何か起きるたびに組合に助けてもらいました。のちに子どもを授かりましたが、妊婦健診も、産前産後休暇取得も、子どもが熱を出して休む時も、すごく揉めました。小さな局ですから、直接文句を言って雰囲気が悪くなるのが嫌だったけれど、組合を通せば団体交渉として話をしてくれるので本当に助かりました。そんな私を見ていた周囲の同僚たちも、何かあると組合に相談するようになり、組合員もどんどん増えていきました。その全員が女性で、結婚・出産後も働き続けていました。

連合君

その後、支部執行委員、婦人部役員を務められたあと、全逓中央本部の副婦人部長に就任されましたね。

長谷川裕子さん

長谷川さん:私はけっこう口が立つというか、思ったことはバシッと言うほうなので目立つみたいです。会議でも黙っていられなくて、すぐに手を挙げて発言しちゃう。「なんかすごく元気な人がいる」というので、婦人部のいろいろな集会に呼ばれるようになって、そのうちに本部の婦人部副部長をやらないかと声がかかり、1983年に就任しました。

連合君

当時は男女雇用平等法制定運動の真っ只中ですが、全逓本部の婦人部はどのような取り組みをしていたのですか。

長谷川裕子さん

長谷川さん:「真の男女平等法をつくろう」という運動が、ものすごい勢いで展開されていた時期でした。全逓の上部団体である総評(日本労働組合総評議会)が男女雇用平等法制定をめざす取り組みの中心的役割を担っていたので、私もその動きに追いつこうと必死でした。労働組合の婦人部だけでなく、全国の女性団体すべてが平等法制定に向けて団結しており、婦人代表者会議でも活発に意見が飛び交っていました。会議で全国を回りましたが、どの地方でも皆さん熱心に平等法の勉強をしていました。私の人生で、あれほど運動が盛り上がった時期は他にないでしょう。

連合君

男女平等という点において、郵便局では独自の課題があったそうですね。

長谷川裕子さん

長谷川さん:国家公務員Ⅲ種には郵政A・Bという区分があり、郵政Aはいわゆる窓口業務で男女共に応募できたのですが、郵政Bの郵便仕分け・運搬業務は男性に限定されていました。重い郵便袋を運ぶし、深夜勤もあるから、という理由ですが、仕分け・運搬は郵便局のメイン業務です。採用人数も圧倒的に多いし、郵便を経験していなければ労働組合では役員として評価されないという暗黙の了解もありました。当時、全国の女性団体がめざしていたのは「入口から出口まで」つまり「募集・採用から定年・退職まで」一貫した真の男女平等法制定です。全逓婦人部は郵政Bを撤廃し、まずは“入口”の性差別をなくすよう求めていました。

連合君

その後、採用時の性差別は解消されたのでしょうか。

長谷川裕子さん

長谷川さん:1985年に男女雇用機会均等法が成立。そして、1998年に郵政A・Bの区分がなくなり採用差別は解消されましたが、そこに至るまでにはいろいろ問題がありました。当時、女性の深夜労働は労基法で禁止されていたのですが、男女雇用機会均等法が審議会で議論しているとき政府はこの禁止規定をなくす、つまり女性も深夜労働をする方向に動き出しました。私たちは郵政Bの門戸開放と女性の深夜勤解除をセットで考えていなかったので、初めてその話を聞いた時は大慌てでした。もう婦人部だけの問題ではなくなり、急いで組合本体、私たちは「親組織」と呼んでいましたが、そこで議論を進める必要がありました。恥ずかしい話ですが、私は婦人部の運動だけしか経験していないので婦人部で通用する方針・報告書・通達しか作成したことがなく、親組織の重要な会議で使う方針等の文章がちっとも書けなかったんです。本部書記局の親切な先輩が手伝ってくれてどうにか乗り越えましたが、あの時は本当に大変で、親組織からたくさん怒られ、たくさん泣き、自分の力不足を実感しました。
結局、その時は組織として女性の深夜業解禁に反対の姿勢を示しました。のちに海外の郵便労働者の調査視察と組織内議論を重ね、労働条件や職場環境を整備したうえでなら女性も深夜労働ができると判断し、その後の郵政A・B区分撤廃に至りました。

連合君

全逓は1993年に女性部(旧・婦人部)を廃止しています。長谷川さんは女性部のあり方に限界を感じていたそうですが、どのような思いだったのですか。

長谷川裕子さん

長谷川さん:婦人部はあくまで補助組織です。親組織はさまざまな政策を立てたり、労働条件の要求書を作成して使用者と交渉する時は、360度の視点で全体を見渡し、判断します。婦人部にいるだけではそのような力が育たないと感じました。私たちが郵政B撤廃を求めていた時に女性の深夜勤解禁について見落としていたのも、全体を見る視点が欠けていたためだと思います。
男性はまず分会の役員になり、分会交渉を経験します。次に支部に行って支部交渉を経験、やがて書記長や委員長となり、そして地区、地本とステップアップしてそのあと本部に来る。ところが女性の場合はずっと婦人部にいて、団体交渉などしたことがないまま“一本釣り”で本部に来たりする。労働組合の役員である限り、団交の経験は絶対に必要です。男性と女性に能力の差などなく、労働組合において女性に不足しているのは“経験”だと思います。婦人部の中だけに女性の椅子を用意するのではなく、男性と同じように親組織で経験を積み、ステップアップしていく過程が必要だと感じました。

長谷川さんの運動の記録はこれらの書籍でも読むことができる

連合君

その後、連合の労働法制局長、雇用法制対策局長、総合労働局長を経て、現在はワークルール検定協会に関わっていらっしゃると伺いました。働く人にとって非常に大切なワークルールを、どうすればよく知ることができるでしょうか。

長谷川裕子さん

長谷川さん:とにかく勉強(笑)! 少人数での勉強会が特におすすめです。私も若い頃はよく小さなグループで勉強会や読書会をしました。みんなで本の感想を言い合うだけでもいいんです。そのほうが、大きな講演会で先生の話を聞くよりも記憶に残り勉強になる。あとは、小説を読むように法律の本やテキストを読むのもいいです。専門家じゃないから、何条に何が書いてあるかまで覚える必要はないので、「この法律にはこういうことが書いてあるのだな」くらいでかまいません。必要になったら、教科書を開けばいいんだから。

連合君

他にも次の世代に伝えたいメッセージがあればお聞かせください。

長谷川裕子さん

長谷川さん:重要な物事は時代によって変わります。あれもこれも解決したいと思っても難しいので、「今は何が重要か」を、その時代を担う人たちに考えてほしいです。それに、自分の年齢や人生のステージによって関心事も変わります。私も妊娠中は労基法の妊産婦母性保護規定に、子育て中は育児と仕事の両立に関心がありました。「今、あの人は何に関心を持っているのだろう」としっかり捉えることも重要です。そのためには多くの人とたくさん話して、働く人の声を聞かなくっちゃ。労働組合で最も大切なのは、経験と勉強、そしてコミュニケーションだと思っています。頑張ってください。

インタビューを伺ったメンバーと共に

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